藪坂りーたの理屈がどうのこうの

本のことを書いていたのですが、、、世の中の理屈っぽいことを書きます。多分

30歳になりました。

30歳になって社会の見方が変わってきた。

僕は新卒で割と大きなスーパーに就職した。

主な仕事内容は、商品の値付け、揚げ物、寿司、粉物の調理。スタッフの作業割り当て表等を作成していた。

当時は同期とは「どんな主任になりたいか?」等を語っていた。

自分は主任になんぞなりたくなかったが、具体的なことは言えずに言葉を濁していた。

特に料理にこだわりがなかった為、スーパーの店員に魅力を感じなかった。

だからか、自分の働き方にずっと違和感を感じていたし、おばちゃんの相手にもうんざりもしていた。なにより、このままずっとスーパーの店員をすることの将来性に恐怖すら感じていた。

だから1年程で未練もなく辞めた。

今思うと、誰かに「本社に行くことを目標にしたら?」と言われたら変わっていたかもしれない。

そんなことを言えるのは10年近く社会人をやり社会をある程度知っている人間だ。僕の父親は高校2年生に進学した直後に亡くなった。親戚はいるが身近には感じない。母親は専業主婦で数年パートで働いただけ。

だから、今も昔も社会の構図というものを経験で知っていくしかなかった。

 

今、ふとスーパーに寄ると見方が違う。

あの時は、ずっと調理をし、おばちゃんの相手をするのかと思われたが、多分そうじゃない。正社員なのだから、将来、人の上に立つポストにつける可能性が大いにあるということを。

まあ、今そんなことを考えても過去に戻れないのでどうしようもないが・・・。

子どもの人生は親で8割決まる

──親の許された選択肢の中で、子供は選んで生きる。

「子供の人生は、親で8割決まる。」
そう言うと、少し極端に聞こえるかもしれない。
けれど、多くの人が大人になってからふと気づく。
自分の「当たり前」や「限界」は、思った以上に“親が決めた範囲”の中にあることに。

◆ 親が作る「選択肢の枠」

子供がどんな環境で育つか。
どんな言葉をかけられて、どんな考え方を教わるか。
そのひとつひとつが、子供の中で「選べる範囲」をつくっていく。

たとえば——
「安定した職業が一番」
「大学に行かないとダメ」
「目立つことはやめなさい」
そんな言葉を聞きながら育った子供は、自然とその価値観の中で“いい子”であろうとする。

選択肢は、最初から“親に許された範囲”の中に並んでいる。
その中から「自分で選んだ」と思っていても、実際はもう線が引かれている

◆ “自分で選んだつもり”の罠

たとえば、進学先、就職先、住む場所、人付き合い。
どれも「自分の意思で選んだ」と思っているけれど、
実はその基準や考え方は、親から受け継いだものだったりする。

「これを選べば喜ばれる」
「これを選ぶと怒られる」
そんな小さな感情の積み重ねが、いつの間にか“人生の舵”を親の方へ向けてしまう。

もちろん、親に悪意があるわけではない。
むしろ「幸せになってほしい」という気持ちで選択肢を整えてくれている。
でもその優しさが、時に“無意識の枠”をつくってしまう。

◆ 親の影響を完全に逃れることはできない

親の影響は、想像以上に根深い。
性格、価値観、言葉遣い、考え方――
それらは知らず知らずのうちに染み込んでいて、大人になっても消えない。

「自分は親と違う生き方をしている」と思っても、
その“違う”という発想自体が、親との比較の中で生まれている。
つまり、どんな形であれ、親の影響の上で生きているということ。逆に言うと、親が死なない限りは子供はずっと子供とも言える。

◆ それでも、残りの2割は“自分の人生”

じゃあ、人はずっと親の枠の中でしか生きられないのか?
そうじゃない。

確かに8割は親の影響かもしれない。
けれど、残りの2割——
その小さな余白にこそ、“自分”が生きる意味があると思う。

自分の中にある「これは違う」「こうしてみたい」という小さな違和感。
それを無視せず、少しずつ形にしていくこと。
それが、親の枠を越えて生きる最初の一歩になる。

たとえば、親が勧めた仕事をしながらでも、
自分なりのやり方で工夫してみる。
小さな選択でもいい。
その積み重ねが、自分の2割を広げていく。

◆ 自分の2割を育てていく

人生を全部親のせいにするのは簡単だ。
でも、それでは永遠に「親が決めた人生」から抜け出せない。

親がくれた8割を“土台”として、
そこに自分の色を少しずつ塗り重ねていく。
そうやってできた人生こそ、本当の意味で“自分の人生”になるんだと思う。

◆ まとめ

子供の人生は、確かに親で8割決まる。
けれど、それは「残りの2割に意味がない」ということではない。

むしろ、その2割をどう生きるかが、
人を大人にしていくんだと思う。

親の枠に気づいたとき、
その瞬間から人は“本当の選択”を始められる。

そしてそれは、どんなに遅くても遅くない。
だって、残りの2割は――
いつだって、これからの自分で決められるのだから。

「もっと頑張らなきゃ」って思うけど、実はそれ“我慢”になってない?

「もっと頑張らなきゃ」
仕事でミスをした時、成果が出ない時、つい自分にそう言い聞かせてしまう。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。

本当に今、あなたは“頑張っている”のだろうか?
それとも、ただ“我慢している”だけかもしれない。

 

“頑張る”と“我慢”は、似ているようで真逆

表面的にはどちらも「辛いことをやり続ける」という点で似ている。でも本質は全く違う。

  • 頑張る=前に進む力

  • 我慢=その場に耐えるだけ

たとえるなら、マラソンにすごく似ている。

 

ラソンのたとえ

ゴールを知っていて、意味を理解して走るとき。どんなに辛くても「あと少しで景色が変わる」と思える。これは“頑張る”。

でも、ゴールも知らされず、いつ終わるかわからないまま、ただ「走れ」「止まるな」と言われ続ける。これが“我慢”だ。

ゴムでも考えてみよう。ゴムを伸ばして戻る力が残っている状態は“頑張る”。
しかし、ずっと張り続けて切れそうになっている状態は“我慢”。
つまり、頑張るには終わりや意味があるけど、我慢には限界がある。

 

なぜ“我慢”と“頑張り”を混同してしまうのか?

日本の職場文化では「耐えること」が美徳として語られることが多い。

「辛くても文句を言わずにやれ」という価値観は、悪意がなくても我慢を強いてしまうことがある。

さらに、上司や同僚が「頑張っている=我慢できる人」と評価してしまうこともある。
これが、“我慢を頑張りと勘違いする構造”だ。

 

我慢しているときのサイン

自分が我慢モードになっているかどうか、チェックしてみよう。

  • 「意味がわからないけど、とりあえずやっている」

  • 「心がすり減って疲れが抜けない」

  • 「頭の中で“逃げたい”と思うことが多い」

  • 「工夫するよりも、ただ耐えることに意識が向いている」

これに当てはまるなら、今は“我慢”している可能性が高い。

 

頑張っているときのサイン

一方で本当の“頑張り”には、特徴がある。

  • 「やっていることに意味や目的がある」

  • 「小さな成長や成果を感じられる」

  • 「疲れはあるけど達成感や満足感もある」

  • 「改善や工夫を楽しむ余裕がある」

頑張ることは、自分の前進や成長につながる力になる。

 

我慢を“頑張る”に変えるには?

では、どうすれば“我慢”を“頑張り”に変えられるのか?

  1. 目的を明確にする
    何のためにやっているのかを自分に問い直す。小さなゴールでもOK。

  2. 自分の選択を意識する
    「やらされている」のではなく、「自分で決めている」と感じられるか。

  3. 工夫や改善を取り入れる
    同じ作業でもやり方を変えるだけで、耐える時間から成長時間に変わる。

  4. 相談できる人を見つける
    信頼できる先輩・同僚・友人に話すだけでも負荷は減る。

  5. 限界なら手放す勇気も“頑張り”
    我慢しすぎて体や心が壊れる前に、やめる・変える決断も立派な頑張り。逃げではなく、自分を守る行動だ。

 

まとめ
  • 「もっと頑張らなきゃ」は、時に“我慢”になっている

  • 頑張ることは、意味や目的があり、成長につながる

  • 我慢には限界がある

  • 自分を消耗する我慢を、前向きな頑張りに変える工夫をしよう

我慢して耐える日々も、無駄ではないけれど、限界を越えると心も体も壊れてしまう。
だからこそ、自分の頑張りと我慢を見極めることが大事。

今日から少しだけ立ち止まって、「本当に自分は頑張っているのか?」と問いかけてみてほしい。
その一歩が、毎日の仕事をもっと前向きに、楽しくしてくれるはずだ。

やりたいことと、やりたくないこと

「やりたいこと」と「やりたくないこと」。
シンプルに二つに分けられそうに見えて、実際はそう簡単じゃない。

たとえば、仕事の職種や学校の科目。
「これが好き!」という分野はあっても、その全部が好きだという人は少ないのではないだろうか。
歴史の授業なら、戦国時代はワクワクするけれど、縄文や弥生、明治大正のあたりはあまり響かない──そんな経験は誰にでもあると思う。

逆に、嫌だと思っていたことが、続けるうちに「まあ、できるかな」と思えるようになることもある。
最初は苦手意識が強かった仕事も、積み重ねれば慣れて自信に変わる。
「やりたくないこと」の中に、小さな“やりたいこと”が顔を出す瞬間だ。

結局、「やりたいこと」と「やりたくないこと」は白と黒に分かれているわけではなく、細分化すれば入り混じっている。
そして大切なのは、その中に潜む“やりたくないこと”を、どれだけ許容できるかだと思う。

もちろん、社会で生きていれば、どうしても避けられない「やりたくないこと」もある。
だからこそ、それを少しでも軽くする工夫が必要になる。
気の合う仲間や理解のある人間関係に助けられることもあるし、お気に入りの小物や、自分を支える習慣で気持ちを切り替えることもできる。

とはいえ、やりたくないことを長時間続ければ、いくら工夫を凝らしても心が壊れてしまう瞬間はある。
特に今の時代は、SNSやニュースで簡単に情報を得られるぶん、必要以上に世間の声を意識してしまう。
「最近の若者は~」という大きな主語に振り回され、自分もその一部だと錯覚することもある。
周りの小さな世界の常識に惑わされ、自分の考えや個性が正しいのか不安になる瞬間もあるだろう。

それでも、「やりたいことをやる」というあなたの個性は諦めてはいけない。
たとえ周囲がどう思おうと、あなたの好きなこと、やりたいことを大事にすること。
世界は秩序があるけれど、個性を取り締まるルールはない。
素の自分を受け入れてくれる人や場所はきっと存在する。
その世界を探す努力をやめてはいけない。それは、誰かのためではなく、自分自身のためにすることだから。

──やりたいこととやりたくないことが混ざるのは、誰にでもある。
けれど、その中で「自分らしさ」を失わずに生きること。
情報に惑わされ、時に疲れる現代社会でも、自分の価値観と個性を信じること。
その積み重ねが、やがてあなたを守り、あなたらしい未来を形作るのだと思う。

 

やりたいことと、やりたくないこと

 

 

「若いから何でもできる」と言われて感じるズレ

「若いから何でもできる?」と言われて思うこと

高齢の方に「若いから何でもできるよ!」って言われたこと、ありませんか?
もちろん励ましのつもりなんだろうし、ありがたい言葉なんです。
でも、正直ちょっと違和感を覚える時もあります。

たぶん、この「何でもできる」って言葉、世代によって意味が違うんですよね。

高齢の方が言う「何でもできる」は、体力とか健康の話なんだと思います。

歳をとっていくとどうしても体にガタがきてしまい、自由に自身の体を動かすことや体力面から限界を感じてしまいます。
対して、若者は徹夜しても次の日元気だったり、体を動かすことにまだ余裕がある。
「若いから体が効くうちに挑戦したほうがいい」という、実体験からのアドバイスなんでしょう。

でも、若い側が受け取る「何でもできる」はちょっと違います。
その物理的な問題の先には、さらに現実にはお金がなかったり、経験が足りなかったり、メンタル的に不安定だったりする。
「やりたいことはあるけど資金がない」
「興味はあるけど、失敗したらどうしよう…」
そんな現実を知っているから、「何でもできる」と言われても、素直にはうなずけないんですね。

つまり、「体力がある=何でもできる」と思う世代と、「現実的な壁もある=何でもできるわけじゃない」と感じる世代の間に、ちょっとしたズレがあるんですよね。

だからこそ、本当に響くのは「若いから」じゃなくて「あなたならできる」という言葉なんだと思います。
年齢じゃなくて、自分自身を見て応援してもらえると、不思議と前向きになれるんですよね。

「何でもできる」という言葉が、ズレじゃなくて、ちゃんと背中を押してくれる言葉になるといいなあと思います。

「鍋を見ていて」で、鍋しか見れない人

この光景は、日常の中の人間の認知の特徴が浮かび上がってくる。

まず注目したいのは、言葉を文字どおり受け取る傾向だ。

※心理学では、これを「リテラルに解釈する」と言う。

 

「鍋を見といて」という指示を、文字どおり「鍋だけを見るべきこと」と解釈するため、火加減や吹きこぼれなどの状況は視界から無意識に除外される。

この思考回路に従えば、善かれ悪かれ、鍋以外に目を配る必要はない。

 

  • 認知負荷の問題も関係している。

人間は同時に複数のことを監視しようとすると脳の負荷が増す。そのため、火加減やタイマーまで気を配ろうとするより、鍋という一点に集中する方が効率的で安定する。

 

  • 単純行為の繰り返しが心理的安定を生む場合もある。

鍋をじっと見続ける行為は、一種の形式化された監視行動として脳に安心感を与え、無意識にその行動に留まらせる。

 

こうして見ると、「鍋しか見れない」状態は、個人の認知スタイルや注意配分の結果として自然に現れる現象であることが分かる。

 

「鍋しか見れない人」の思考回路

1. 言葉をそのまま受け取るタイプ

  • 「鍋を見といて」と言われた → “鍋を見る”ことが任務だ と捉える。

  • 火加減や中身の状態は指示されてないから対象外。

  • 思考:「任されたこと以外をやったら逆に怒られるかもしれない」

→融通はきかないけど、忠実で誠実。


 

2. 役割に没頭しすぎるタイプ

  • 見る=監視、観察、記録。

  • 「吹きこぼれる」「煮立つ」といった“イベント”を冷静に観察している。

  • 思考:「鍋を見守ることが、いまの自分の存在意義」

→鍋を人生の師匠のように眺めている。


 

3. 責任転嫁を恐れるタイプ

  • 余計なことをすると責任が増える。
  • 「火を弱めたら味が変わった」「混ぜたら焦げついた」なんて言われたくない。
  • 思考:「見てるだけなら、自分のせいにならない」

→最小限の行動で責任を回避する戦略家。


 

4. 鍋=瞑想の対象になるタイプ

  • じっと鍋を見つめるうちに、気持ちが落ち着いてくる。

  • ぐつぐつした泡を見て「宇宙みたいだ…」と哲学モードに突入。

  • 思考:「この泡は生まれては消える。まるで人生だ」

→言葉を超えて、精神修行の境地へ。


 

5. 指示待ち人間の究極形

  • マニュアルがないと動けない。

  • 「次はどうすればいいんですか?」と聞くまで、ずっと見てる。

  • 思考:「指示がなければ、僕は“鍋を見ている”で正解」

→社会風刺っぽい方向にも広げられる。

 

日常の類似パターンと思考回路の分析

この現象は、料理以外の日常行動にも見られる。

例えば:

  • 「コピーお願い」と頼むと、コピー機に紙を入れるだけで終わる人。

  • 「掃除して」と言うと、掃除機を出しただけで作業完了とする人。

いずれも指示を文字通り受け取り、最小限の行動でタスクを遂行する傾向がある。

このような行動の背景には、子どもの頃に培われた学習経験が影響していることが多い。親や教師の指示に忠実に従い、褒められた経験が強く残っていると、指示を正確に守ることが「正しい行動」として脳に定着する。

又、認知負荷の高い状況では、複数の要素を同時に処理せず、目の前の一点に集中する方が心理的に安定する。このため、吹きこぼれや焦げなどの“小さなイベント”は、悪いこととは捉えない場合がある。

 

終わり(思考回路と結び付けた深堀まとめ)

「鍋しか見れない」状態は、一見些細な行動に過ぎないが、実は人間の認知や注意の分配のあり方を如実に示す現象だ。

指示を文字どおり受け取るか、文脈や暗黙の意図まで汲み取るか、同時に複数の情報を処理できるか否か――こうした能力や傾向は個人差が大きく、どれが正しいというわけではない。鍋を見つめる姿を観察することで、注意力や責任感、心理的安定の優先順位など、無意識のうちに働く脳のプロセスを垣間見ることができる。さらに、この思考回路は子どもの頃の学習経験と結びつき、指示に忠実に従うことが心理的報酬として脳に刻まれた結果でもある。

今さらだけど、ChatGPTってすごいよなって話

最近ふと、「またブログを書こうかな」と思った。
何を書こうかと考えて、過去の投稿を見返してみると──
小説の話、経済の話、ちょっと真面目すぎたかもしれない。

もっと日常的なこと、自分の近くにあることを書いてもいいんじゃないか。
そう思って周りを見渡してみたら、そこにあったのがChatGPTだった。

仕事でも趣味でも、もう何ヶ月も毎日のように使ってるのに、
なぜかそれについては一度も書いたことがなかった。
まさに「灯台下暗し」ってやつだ。

というわけで今回は、ちょっとゆるく、
僕にとってのChatGPTについて書いてみようと思う。

 

どういう時に使うか?

僕の場合、ChatGPTは単なる調べ物ツールじゃない。
小説の構成を一緒に考えたり、経済の話を整理したり、
ときにはアイデアの壁打ち相手になってくれる存在。

 

使って感じたこと

「自分の思考の補助輪」としてすごく便利。
けど、全部任せると逆に思考が鈍る瞬間もある。
書き手としての自分の輪郭が、GPTを通すことで際立つ瞬間があるんだよね。

 

これからのブログとChatGPT

このブログでも、これからChatGPTと一緒に作ったネタとか、
実験的に書いた話とか、いろいろ試していこうと思う。
いわば「ChatGPT×自分」という創作の記録にもなればと。

 

まとめ

というわけで、今回は「灯台下暗し」な話でした。
ChatGPTは便利だけど、単なる道具じゃなくて、
考えるきっかけをくれる相棒みたいな存在だなと最近は思ってます。

次回は、創作の話か、また別の話になるかも。
ここから少しずつ、自分のペースで書いていきます!

 

↑ちなみに上記の記事は全てChatGPT君がすべて考えてくれました。